

学校にきちんと通い、授業を完全に理解すれば大学受験には勝てるものだとしたら、どんなにいいことでしょう。しかし、現実はこうではありません。なぜでしょう。それは「学校教育」と「受験教育」に大きな隔たりがあるからです。このことを解き明かすために、まず「学校教育」とは何なのかを述べたいと思います。学校教育とは、黒板に教師がチョークで色々なことを書き連ねる「板書」を主体とした、くどいほどの基礎教育の試みです。クラス全員が理解できるようにしっかりと説明することが不可欠とされます。その結果、受験につながる勉強に必要な演習の時問がとれなくなります。演習は家庭学習や塾でどうぞ、というのは「暗黙の丁解」です。少子化社会の子ども達は、広さが充分ではない空問で、ほかの子どもの影響を受けることなく育つため、ますます「多様化」に拍車がかかっています。私は、この個々の能力に差のある集団に同一の学習をさせることはもはや不可能だと思っています。集団内で別々の勉強をさせるほうが、よほど効率的だと思います。
でできない生徒ややる気のない生徒はできる生徒のようにはいきません。まず授業が理解できません。授業が理解できるようになるためには、予習復習をすることが重要なのですが、それがまた一苦労です。家にまでついていって、朝から晩まで指導するわけにはいきません。家に帰ってから予習、復習、宿題をするかどうかは、時間をかけて予習復習がいかに大切かを説得しつづけ、宿題をやってこなければ保護者の了解のもとに自習室でやらせます。理解できない問題については、あれこれと工夫して個人的に教え、暗記ができない生徒にはつきっきりで暗記の特訓をします。また、いくら個別指導塾等の講師が熱心になっても、本人が努力を続けるためにはやる気と自信をもたせなくてはなりません。それもまた一苦労です。
[参考]個別指導教室(予備校・塾)/四谷学院
第二次ベビーブームの嵐は一九九二年をピークに、いくつかの爪あとを残して過ぎ去っていった。大学・短大の平均合格率も二〇〇〇年(平成十二年)には八〇パーセントを超えている。最悪だった一九九〇年の六三パーセントを思えば夢のようである。大学の選り好みをしなければ、高卒者はどこかの大学に入れる時代がやってきたのである。これで高等学校も息をつける。大学合格実績にさほど追いまくられなくともすむ。授業も正解発見授業から解放されて、再びかつてのように先生が教科の本質について語る授業が戻ってくる。そして予備校も知的にリッチな生徒を迎えて、伝家の宝刀を駆使した、華麗な正解発見授業に戻ることができるであろう、と予備校の多くのスタッフは期待した。
文章を書き終えたら、声を上げて自分の英文を読んでみることをぜひすすめます。自然に滑らかに読めない部分には文法上の誤りがあったり、不必要なまでに難解な単語を使っている可能性があります。ひとつの文だけが長すぎたりすることにも気づくでしょう。書いていたときには気がつかなかった誤りを、読んでみて初めて気づくこともしばしばあります。これ以外にも英文を書くにあたって重要と思われる事項はたくさんあります。